毎日の色つなぎ

毎日しあわせな事が沢山あるとうれしいけど、ブルーな経験も長い人生の中では丁度良いアクセントになるかも。 いろいろな毎日の色。大きなキルトの様にいろんな色をつなぎ合わせて生きたいな。
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まずはじめに・・・・

東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。
一日も早い復旧・復興をお祈りいたします。

あれから、三週間。
とっても心が晴れなくて泣きたい気分なのに、普段と変わらない穏やかなこの場所に住む人々。関西は本当に普通に暮らしていけてます。
私は「笑わなくちゃ」と思って無理して笑う。
というか笑ってもいいのかな?なんて思ったりします。

「こっちにいてよかったよね~」って言われると複雑です。
私の大好きな町が壊れ、大切な人がとても苦しんでる。そう思うと・・・私は何も不自由なく暮らしていて申し訳なく思ってしまうのです。
でも、このままじゃ、だめだよね。
 少しずつ私も上を向こうと思います。

3月11日

その日、ダンナは仙台へ出張予定でした。
あの時間、私は丁度子供たちと公園で遊んでました。
そこへダンナからの電話。
「仙台で大きな地震が合って、飛行機欠航になった」とのこと。
いつもの出張なら、朝から仙台入りしてるはずなのでもう仙台にいて、大阪へ帰ってこれないということなのかな?と思ってたら、まだ伊丹空港だといいます。
 たまたまその日は午後しか予定がなく、大阪で仕事を片付けてから出発する予定だったらしいです。
今思うと、いつもどおり早くに出発してたら、きっと震災に巻き込まれていたと思います。

でも、私達はまだ楽観的に捉えてました。
宮城で震度5,6の地震は珍しくない。
飛行機だって一時的に飛ばないんだろうな・・・なんて私達は思ってました。
予定していた会議は中止になったので、今日は自宅に帰るねーと言われ電話を切りました。 
今日は牛タンは無しかーなんて思いながら・・

一緒にいた友達なんかにも
「仙台は建物も頑丈に出来ていて地震に強いから大丈夫!」なんてお話しながら、16年前の阪神淡路大震災の事を聞いたりしてました。

一時間後、自宅に帰りテレビをつけると八戸の漁港が津波らしき海水に飲まれている映像が目に入ってきました。
八戸でこんだけひどいなら、宮城県沿岸部にあるダンナの実家はどうなってるんだろう? すぐにお義母さんの携帯に電話したけど、つながらず・・・
次に目に飛び込んできた名取市の津波映像。仙台空港にも津波が押し寄せてます。
空港ってこんなに海から近いんだっけ?? なんでこんなところまで来るの??え??
最初に思ったのは、来るはずのないところに津波がやってきてる。いったいどれだけ巨大な津波なんだろうか?そういうことを思ってました。

この時、初めて大変な大災害だということに気がついた。
足が震えて、涙があふれてきました。
仙台付近が津波に襲われるって、あまり考えたことがなかったです。

みんなは無事なのかな?
まったく連絡の取れない知人達のことがとても心配で・・・
午後のまだ明るい時間の地震です。
仙台港近くの公園になんて遊びにいってないかな??といろいろイヤな事を考えてしまってました。

この大地震は、宮城県民ならほぼ誰もが知っている、これから30年間の間に必ずやってくるであろう宮城県沖地震だろう・・・・とうとうやってきたなと思いました。

(でも、後日話を聞くところによると、震源地も違うし、想定されている宮城沖地震ではないらしい。こちらは1000年に一度の大地震だそうです。)



結婚したときに思いました。
ダンナの実家は海が近く、泳げない私はあまり水辺には近づきたくなく・・
津波も原発も怖いから、あそこにはすみたくないよ。そんなことをダンナと話したことがあります。
実家は高台にあって、いくらなんでもここまでこないし、まぁ港にいたら別だけどね。と当時ダンナが言ってました。

そんな話が、現実的なことになるなんて・・・・思ってもなかった。
(原発は大丈夫だったけど。)
過去のことだけど、そう思ってしまった私はなんて愚かだったんだろうと落ち込んでしまいました。

翌日、まったく連絡のつかない両親が気になり、同じ宮城県内に住んでるおねえちゃんが車で向かうことに。
夕方、様子を見に行ったおねえちゃんから短いメールが送られてきて「二人は無事だ」と。


ただ・・・おばあちゃんが建物ごと流されてしまいました。直前までお義母さんは一緒にいたようです。 用事が入り、一足早く自宅へ帰ったところの地震。

土曜日に震災後初めて、お義母さんと電話で話すことができました。
くわしい話を聞くとお義母さんもお義父さんも、一歩間違えてれば津波に流されてるところでした。
あの町の壊滅状態を思えば、二人とも無事、自宅も無事(お店は浸水したようですが・・・)なのは本当に奇跡だと思います。
おねえちゃんから、二人は復興に向けて張り切ってると聞いてたので、命もあったし、あまり心配してなかったけど、実際声を聞くと、元気がなく・・いつのもお義母さんではなかったです。

おばあちゃんのこと。「失敗させてしまった・・・」といいました。
なんて返していいかわからなかったです。

ほかにもいとこや親戚が流されてしまってるようです。
自宅を失った親戚もいます。 偶然にもまなかが保育園でお世話になった先生も住んでます。心配です。

海の近くには住みたくないーなんて言っていた私でしたが、あの町はきれいなところだなって思ってました。 おいしい魚を売っていた市場はもうない。だんなといろいろあって一人で実家へ向かった時(乗り込んだとき??)、お義母さんが連れて行ってくれた海洋施設ももうないです。 そしてなにより大好きだった仙石線が・・・・
まるで海の中を進んでるような感覚になる線路風景もあるんです。
そこが大好きでした。のどかで・・・癒されるのです。
 今では・・駅がなくなり何人ものご遺体が打ち上げられ・・・映像や写真を見かけるたびに悲しくて息苦しい気持ちになります。

他にも東北のハワイといわれるとてもきれいな鮎川の海。
今年は息子君も一才になるし、みんなで行こうと民宿を予約してたところでした。 
そして、とても眺めのいい牡鹿半島。あの穏やかな海が住民をこんな目に合わせるなんて・・・
私は度々、津波がきたらどうするの?ってダンナ家族に良く聞いてました、 質問しながらも半分、そんなことはないだろうと思いながら。。。
本当にやってきてしまった・・・・とても辛いです。

落ち込んでいたお義母さんに言われました。

「こっちは心配ないから、あなたは孫のことだけよろしくね。頼むよ」って。

私に出来ること。
そう、一番やらなきゃいけないことは、子供達をすくすく育て、今夏に会いに行くことだなって・・その時はっとしました。

直接の被災者じゃない私が落ち込んでたって、悲しんでたって何も意味がない。 
きちんと顔を上げて復興のために出来ることは全力でする。

大阪での暮らしは長くなりそうだけど、定年後住むなら絶対仙台だよね。ってダンナとよく話します。二人とも大好きな町です。
その町のために、力になりたいと考えてます。
だから、上を向いて、進まなきゃね。

まずは、8日にあるまなポンの小学校の入学式を元気に出席して、晴れ晴れとした孫の写真を送ってやろうと思います。

針仕事はなかなか再開するには気持ちの余裕が実際のところないのだけど、
落ち着いたら勇気を持って手仕事をしてみたいと思います。

ずっと更新出来てない間にもいろいろなことがあり、書き留めておきたいことが沢山です。
少しずつ、時間を見つけて書いていこうと思います。
気持ちを前向きにするためにも、これからブログを書き続けていこうと思います。
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【 2011/04/02 】 未分類 | TB(0) | CM(0)
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